書籍・雑誌

2017年6月27日 (火)

(271)偽書?「ミュータント・メッセージ」

ケアンズで、アボリジニのパフォーマンスを観たことを書いたら、友人から一読の価値ありと勧められた本がマルロ・モーガン著「ミュータント・メッセージ」(角川書店・絶版)です。

 

主人公はアメリカ人の女性の医療関係者。オーストラリアの知人から、彼女が行っている患者教育プログラムを活かすためにオーストラリアで働かないかと誘われる。行ってみると、占い師から「あなたがこの国に来たのは生まれる前から約束されていた、お互いが向上できる人と出会うために。あなたとその人とは地球の反対側で、同じ日に生まれている・・・。」と告げられ、アボリジニの<真実の人>という部族に出会う。そして未開の地を三カ月歩いて旅をすることになる。身に着けているすべてのものを脱がされ、ボロのような服だけが与えられる。脱いだもの、装飾品はじめ持ち物はすべて燃やされてしまった・・・。

 

この旅で部族は食べ物を持ち歩かない。水を入れる動物の膀胱を持つだけ。行く手には必ず食べ物が与えられる、と信じている。彼らの祈りに宇宙はつねに応えてくれる。彼らは心から自然のあらゆるものを讃える。言葉ではなく、メンタルテレパシーで意思を伝えあう。テレパシーは、心や頭に何か隠そうとする部分があると機能しない。言葉や書き文字は障害物として排除される。声は歌うため、祝うため、癒しのためにある。すべてを受け入れ、正直になり、自分を愛することが大切である。

 

主人公は、<真実の人>族の人たちと行程を進むうちに、足を複雑骨折した男が仲間たちの介護で翌日には歩けるようになったり、ミュータント(突然変異を意味する単語。科学の力で超越した能力を得た者のこと。この本ではアボリジニから見て現代人をミュータントであると表現しているらしい。)からみれば奇跡と思われることをいくつも体験していきます。こんなことも<真実の人>族から指摘されます。

 

われわれは宇宙との一体にまっすぐ歩いている。(おまえたち)ミュータントは、多くの信仰を持っているね。おまえの道は私のとは違う、お前の救い主は私のと違う、おまえの永遠は私のと違う、と思っているね。だが、本当はすべての命はひとつなんだよ。宇宙の意図はひとつだけだ。肌の色はたくさんあるが、人類はひとつだ。ミュータントは神の名前や建物の名前、日付や儀式で言い争う。・・・みんな同じ血と骨を持っている。違いは心と意図だけだ。ミュータントは自分のことや人との関わりのことを、ほんの百年でしか考えない。<真実の人>族は永遠を考える。祖先や、まだ生まれない孫たちも含めて・・・。

 

そしてついに<真実の人>族から認められた主人公は、彼らの最後の伝言を受け取ります。

 

この世界の人々はすっかり変わり、大地の魂の一部を売り渡してしまった。その魂と合体するためにわれわれは天に行く。あなたはわれわれがここから去ることを仲間に伝えるミュータント・メッセンジャーとして選ばれた。われわれはあなたがたに母なる大地を残していく。あなたがたの生き方が水や動物や空気に、そして互いにどんな影響を与えていくか、はっきり認識するように祈っている。・・・われわれのときは終わった。すでに雨の降り方は変わり、暑さは増し、作物や動物の繁殖も衰えている。われわれはもはや魂の住みかとしての肉体を用意することはできない、なぜならまもなくこの砂漠に水や食べ物がなくなるときがくるからだ。・・・

 

ウィキペディアなどによれば、この本は著者自身の実体験に基づいて書かれたノンフィクションとして当初刊行されたが、アボジリニからは否定、抗議され、またアボリジニの長老が書いたとされる推薦文もねつ造と判明したため、あらためてフィクションとして再刊行されたとのこと。

 

しかし、素直に読んだ人は、今の地球に住む自分のことを、あらためて考え直そうとするでしょう。現代人が他人より「良い」生活をするために、ひたすら競争をしながら生きていること、そのために地球が汚染され、そのためにいずれ苦しむ子孫のことより、今の自分の快適な生活を優先してしまっていることなどを。

 

人が生まれてきた意味は何か、ミュータントの誰も教えてはくれません。宗教者であろうと、実際は誰も知らないからでしょう。自分の素直な心に従って生きる、誰かのために尽くす、自分の役割を感じながら毎日を生きる、何よりも周りと助け合って生きる、そうしていれば宇宙の大きな計らいが人を守ってくれるという<真実の人>族の信仰は、何万年を生きてきただけに示唆を与えてくれます。

 

単にスピリチュアルの一語で済ませてしまっていいものか。(もう引き返せないが)私たちの道が、確実に滅びに向かっていることを感じる今だからこそ、一読の価値ありとMくんは勧めてくれたのだろうと思います。

 

 

 

2017年2月 9日 (木)

(253)「沈黙」と「不干斎ハビアン」

二月は逃げる・・・まったく。矢のように日が経っていく。

4日の立春は少し春めいた感じであったが、9日の今日は今冬初めての雪らしい雪が降り、10センチほど積もっている。

 

「沈黙-サイレンス-」についての評論家のコメントをいくつか。

 

「スコセッシは、遠藤周作が行間に込めたものを、日本人が母語で読むよりもはっきりとつかんでいる。信仰は棄教してもなお深まると遠藤は問いかけている」(若松英輔氏)

「絶対的な神の世界から、別のおぞましい世界に行ってしまった人間が、そういう世界を理解して生きようとする。そこにこの映画の現代性がある」(佐藤忠男氏)

「信仰を超越的なものではなく、答えの出ないものとしてとらえた」「転ぶ(棄教する)方が神の御心に沿う。土地に合わせ、自分なりの信仰を見つけよう。信仰は超越的なものではなく、状況の中でどう動くかだ――遠藤もスコセッシもそう考えている」(アーロン・ジェロー氏)

 

前回触れた「不干斎ハビアン」(釈徹宗著)。禅僧からキリシタンとなり、のちキリスト教をも棄てた宗教理論家の物語である。

 

まず仏教への批判書として「妙貞問答」を著した。妙秀と幽貞という二人の尼僧の問答で二つの宗教の違いをわかりやすく解説した。ポイントは、「仏教は(最終的に)無や空に帰着するので救いがない」「(仏教には神という)絶対者の概念がない。釈迦も諸仏も人間であり、造物主ではない」などと。「妙貞問答」はイエズス会のみならず、他の修道会でも布教のテキストと使われたという。

 

しかし、その後ハビアンは「妙貞問答」を自ら全否定し、「破提宇子(ハデウス)」というキリシタンの誤りをまとめた書を著した。「真に人間を救うのは人間にはなしえぬ。神でなければ」とキリシタンはいうが、「天地開闢からイエスの誕生まで5000年。その間、無数の人が(キリスト教を知らないため)死んで地獄に落ちるのを放っておいたのか。神は無慈悲である。」などと。

 

キリシタン教団への批判もおもしろい。

「キリシトの血肉として、パンを食べ、ぶどう酒を飲んでいる。信用できない」「南蛮人は日本人を人と思っていないから、日本人キリシタンはみなおもしろくない、と言っている」「デウスの人は無欲で慈悲深いといわれるが、本当は強欲である。」等々。宣教師たちを中から見た実感なのかもしれない。

 

しかし、またまたハビアンは、「京都において、修道女と駆け落ち同然に退会・棄教した」のである。信仰を守るということがいかに困難なことであったか、ハビアンはその見本のような、見方によっては実に人間臭い人物だった。

 

当然ながら遠藤周作はハビアンの信仰に疑問を呈している。遠藤は、すべてを同質化してしまう日本の宗教性とカトリックの信仰との狭間で苦悩し、その著書『沈黙』のなかで、「この国は沼地だ。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と、(日本で棄教した)宣教師フェレイラに語らせている、と著者釈徹宗は記している。

 

「不干斎ハビアン」を読んでふたつのことが印象に残った。

 

ひとつは、布教のために日本に来た宣教師オルガンチノは、「日本人は、全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同に遙かに優っている。われらの主なるデウスが、何を人類に伝え給うたかを見たいものは、すべからく日本に来さえすればよい。私たちヨーロッパ人は、互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮だと思う。私はほんとうのところ、毎日日本人から教えられることを白状する。私には、全世界でこれほどの天賦の才能をもつ国民はいないと思われる」と語ったこと。(もちろん一方で日本を軽蔑する宣教師もいたわけだが)

 

もうひとつは、山本七平がハビアンのことを「最初の日本教徒」と呼んだこと。「日本教」とは山本による日本人のエートス(行動様式)のことで、教義も儀礼も思想もないが、ハビアンこそ近代的日本人の第一号だという。これに共感した小室直樹氏も「あるべき姿そのままで生き抜く」日本教こそが最も高い宗教的価値を持ち、その自然の体系の中に救済も組み込まれている、という。

 

確かに、混とんとした世界情勢の中では、「沈黙する神」に依存することなく、「自然と一体となって自在に生きていく日本人」を取り戻すことこそ重要なことではないかと思う。

 

 

 

2016年12月16日 (金)

(246)「自衛隊幻想」を読む

拉致問題から日本の安全保障を考え、自衛隊をテーマに防衛問題を解明する好著である。

拉致問題の専門家である荒木和博氏、陸上自衛隊に特殊作戦群を創設した荒谷卓氏(平成20年退官)、海上自衛隊特別警備隊の創設メンバー伊藤祐晴氏(平成18年退官)の共著。

 

数百人(人数は不明)ともいわれる日本人が北朝鮮に拉致(侵略行為)されながら、この問題に自衛隊はまったく関与してこなかったし、政府も自衛隊自身も、今も関係づけて考えていないと書かれている。その証拠に、諸外国の情報機関も把握している我が「防衛白書」に、拉致の「ら」の字も書かれていないという。北朝鮮がなめてかかってくるのも当然か。

 

安倍首相自身、外務省の「対話と圧力」「行動対行動」という方針を唱えていれば拉致被害者を救出できると本気で思っているのだろうか?彼は世に好戦的なタカ派といわれているが、鷹に失礼ではないか。いくら首相が各国指導者に、北朝鮮の無法と問題解決への協力を訴えても、「おたくの防衛白書を読ませてもらったが、自国民を助けたいと考えているとは思えないよ」とバカにされているだろう。

 

もし、北朝鮮で体制崩壊が起こったとして、政府から拉致被害者の救出を命じられたとしても、今の状況ではまったく自衛隊は対応できないという。50年ほど前に「三矢研究」と呼ばれた自衛隊内の図上作戦演習が問題になって以降、自衛隊内では法律で明確に規定されたもの以外は、「検討もしてはいけない」ことになっているそうだ。

 

よって本書には、著者たちが行った被害者救出について、二通りのシミュレーションが掲載されている。一つは現法制下で行える「邦人輸送」、もう一つは憲法改正(軍隊を保有し、交戦権もあると改正)を前提とした救出作戦。憲法改正には相当な時間が要するため、実現性では前者が勝るが、政府が決断すれば一部の被害者の救出は可能だと書かれている。いずれの作戦も興味深い内容である。

 

伊藤氏は、問題のすべては日本に国家・国民を守りぬくという「国家の理念」がないことだという。指導者が拉致被害者を救い出すという明確な意思を持たないから、自衛隊は動きようがないと。

 

荒谷氏は、平成9年の「アルバニア暴動」でドイツが戦後初めて自国の判断で軍事作戦をとったときのことを書いている。それまでドイツは、NATOの中だけしか軍事力は使わないと憲法に規定していたが、冷戦が終わったこのときから、自国の安全保障は自国で担保しない限り対応できないと方針を変更した。それに引き替え日本は、冷戦が終わったのだから平和になる、日米安保は永遠だと判断してしまった。彼我の差は大きいと。

 

拉致被害者のことは見て見ぬふりをしてきた日本。自衛隊は災害出動だけでよいと考える、決して少なくない数の国民。「専守防衛」というまやかしの美名に酔って、問題と具体策を国民に提示してこなかった指導者や政治家たち。日本は未曽有の危機にあるのだ。

 

荒木氏は、戦後日本で無視されてきた国民の「国防の義務」に触れ、「国防は誰かにやってもらえばよい」としてきたことが、周辺諸国とは比べものにならない脆弱な国にし、拉致被害者を生んでしまった。国民の意識が変わらない限り、国民を守れないと指摘している。

防衛の現場を知る専門家による本書は多くの国民の心に響くはずだ。

 

 

 

2016年5月13日 (金)

(220)国難の正体

元ウクライナ大使、馬渕睦夫著「国難の正体」を読む。

彼の著書は、センセーショナルなタイトルが多く、新聞広告を見ても、

なんだか胡散臭くて買う気になれなかった。

『世界を操る支配者の正体』とか、

『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった』とか。

 

今回あらためて活動仲間に勧められて、初めて表題作を読んだが、

一読の価値は充分あるし、直感的に彼の言説は信用できる、と感じた。

日本の元外交官にこうした人物がいることと、

仮に「異端」と烙印を押されることもいとわず、

世にこれらの書を問うていることは、評価できる。

 

世界を操っているのは、国家の枠を超越する、「グローバリズム」という思想で、

イギリスのシティーと、アメリカのウォール街の国際金融資本家たちの仕業だと。

彼らユダヤ人は、マネーによる世界統一を狙っている。

彼らと共産主義は、敵対どころか、同じ思想といってよい、とする。

 

古くは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、最近ではロシアのクリミア占領とウクライナとの紛争。

中東の「アラブの春」や東欧のカラー革命、「イスラム国」についても、

背景に必ず彼らの存在がある、という。

戦争を起こさせ、長引かせ、また新たな戦争を作り出し、

しっかり儲ける悪魔のような人たち。

 

かつてネイティブ・インディアンを駆逐し、アメリカを建国したWASPと呼ばれる

プロテスタントの白人エリート。

彼らもすでに力を失い、アメリカの民主主義、人権、法の支配といった理想主義は

姿を変えて、世界のいたるところで紛争を作り出している。なるほど。

 

こうした勢力と闘うために、日本はロシアとの連携を深めよと馬渕は提言している。

日本人とロシア人とは親和性があるとするが、はたしてそれはどうだろうか。

 

日本は、「勤勉さ」「和」「共生」といった特性を活かして国際貢献し、

「グローバリズム」との調和も図っていくべきで、日本ならそれができるという部分に

わずかに希望は感じるが、今の政治家たちには難しいことだろう。

 

悪魔たちに対抗していくためには、やはり悪魔たちが作って日本に持たせた

「日本国憲法」を変えることから始めねばなるまい。

日本の共産党が、憲法改正を断固阻止すると叫ぶ背景には、

国際共産主義があるからなのかと思いつくが、それだけでもこの本を読む意味はある。

 

 

 

2015年9月11日 (金)

日の名残り

イギリス旅行中に、ガイドさんが教えてくれたカズオ・イシグロの「日の名残り」。この夏、本を読み、映画も観た。どちらも良かった。この夏の数少ない収穫だった。筆者も先日また誕生日を迎え、間違いなく「日の名残り」のなかで生きているのだが、自分と比べながら、イギリスの誇り高い執事、スティーブンスの思いを反芻している。

 

執事とは、日本では寺社などの事務を取り仕切るものをいうが、本来はやはりイギリスの名門貴族の館で、たくさんの使用人を取りまとめ、家事や事務、訪問客の接待など、家内外の実務を取り仕切って、主人に全面的に仕える職名である。映画におけるアンソニー・ホプキンス演じる謹厳実直な風貌、佇まいが象徴的である。主人を立てて出過ぎず、かといって必要に応じて主人の片腕ともなり、口さがない訪問客たちにも、主人の評判を落とさないように応える器量も必要。片時も油断ができない緊張感のなかで生きている。

 

スティーブンスが長年、誇りを持って仕えたダーリントン卿が亡くなり、ダーリントンホールは新しいアメリカ人の富豪の手にわたる。引き続き執事を続けることになったスティーブンスは手薄になった使用人を補充しなければならない。そこにかつてダーリントンホールで一緒に働いたミス・ケントンから手紙が来る。ミス・ケントンは、今はベン夫人となっているが、夫とはうまくいっていないらしく別居しているという。

 

ベン夫人に会ってもう一度一緒に働こうと伝えるために、新しい主人の了解をもらってひとり短い旅に出る。滅多に旅などしたことのないスティーブンス。この旅の道すがら、かつてのダーリントンホールで、ダーリントン卿や、ミス・ケントンと過ごした日々が語られる。優秀な部下であった彼女に対し絶大の信頼を置きながらも、品格ある「偉大な執事」としてふるまうがゆえに、彼女の好意やアドバイスを再々拒んだあの頃が苦く思い出される。執事ももちろん人間であったのだ。

 

きっと受け入れてくれるはずと思い込んでいたスティーブンスに、こんどは彼女が拒否をする。老境に入ってからのこの結果は辛いものであるはず。しかし彼はこう考える。

「私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚える十分な理由となりましょう。」

 

そして現在仕えるジョーク好きなアメリカ人富豪の執事として生き抜く決意を語る。「明日ダーリントンホールに帰りつきましたら、私は決意を新たにしてジョークの練習に取り組んでみることにいたしましょう。」と。

 

カズオ・イシグロが、先日テレビに登場したとき、この「日の名残り」について、「実は私たちも執事なのだ。」と語っていた。ひとりひとりが自分の仕事をするだけであり、自分の仕事が自分より上のレベルで果たして役立っているのかもわからない。人間と政治権力への隠喩を含んでいる、とも語っていた。

 

俗なことばでいうと、この日本生まれのイギリス人作家にハマっている。

 

 

 

2015年1月10日 (土)

「アフリカ」から何がみえるか

「人類はどこに行くのか」(講談社・興亡の世界史20)のなかの「アフリカから何が見えるか」には興味深い内容がありました。この程度のことに今ごろ心動かされているようでは、いかにこれまで不勉強だったかを暴露することになりますが・・・。

 

奴隷貿易の実態

アフリカから新大陸にどれだけのアフリカ人が連れ出されたか。16世紀から19世紀までに1500万人くらいという推計があるが、これは「輸出」された「商品」としての奴隷の数であり、実際には、奴隷狩りの侵略や戦争での死亡者や、港で積み出されるまでの道のりで、はたまた奴隷船の中で死亡した者は膨大な数であるという。ある研究者によればアメリカに辿りついた奴隷一人について、五人の人間が死亡しているとされ、もしそれが事実に近いのだと考えれば、結局アメリカは奴隷貿易によって7000万人から8000万人にものぼる労働適齢期の人間をアフリカから奪ったことになる。

 

マリ王国などの繁栄

しかし、10世紀から14世紀のアフリカは、経済的繁栄を謳歌し政治的安定を誇った、文明の中心地のひとつであった。他地域と比べても遜色ないほどに。なかでも14世紀に栄華をきわめたマリ王国では、メッカから連れてきた職人に礼拝堂とモスクを建築させ、大学を開学した。人民統治は、文官による正規の行政制度によって行っていた。サハラ以南の各地で経済的繁栄と文化的洗練が花開いた、いわばアフリカの黄金時代で、その頃訪れたヨーロッパやイスラム世界からの旅人はアフリカを称賛したという。

 

以上の二つのギャップには本当に驚かされますね。16世紀になると、アフリカの栄光は突如ピリオドが打たれ、以降、欧米の侵略が本格化して、ついにはアフリカを「暗黒の大陸」と呼んで、世界史の外に追いやった・・・。

 

ヘーゲルのアフリカ排除論

19世紀初頭この哲学者は、アフリカ人をヨーロッパ人と同じ人間と見なせないとして次の理由をあげた。「個としての自分と、普遍的本質としての自分との区別を認識できない。自己とは別の自己より高度な絶対の実在については、まったく何も知らない。野蛮で奔放な人間です。」

 

ほとんど動物に近い存在だと言っているようなものです。こうして欧米はアフリカを身勝手に侵略していく。その手法は悪辣で、平和に過ごしていた人たちを部族間対立に駆り立てていきました。有名なルワンダのツチ族、フツ族も、もともと別個の集団であった証拠は何ひとつなく、彼らを分断し固定化し、互いに血で血を洗う抗争に導いたのは、ドイツとベルギーの植民地支配であったと書かれています。

 

中韓からいまだに侵略への反省が足りないといわれている日本ですが、近世以降の世界史を辿れば、欧米諸国がアフリカや中東、中南米、そしてアジアにおいて、はるかに膨大な規模で、かつ凄絶な侵略が行われてきたことに留意しなければならないし、頭ばかり下げていては、命をかけてアジアを列強から守ろうとしてきた先人たちに申し訳ないと思います。

 

 

 

2014年11月21日 (金)

「こんにちは、ユダヤ人です」を読む

読書の秋というのに、ゆっくり本を読む時間もなく・・・と書くと、ずいぶん忙しい人だな、と思われるかもしれませんが、単に時間の使い方が下手くそなだけであります。読もうと思えば時間はいくらでもあるのです(反省)。

 

ロジャー・パルバースと、四方田犬彦の対談「こんにちは、ユダヤ人です」(河出ブックス刊)、先月出たての本ですが、とても面白かったです。この二人のこと、全然知りませんでした。パルバースは当然ユダヤ人、アメリカで生まれたが、ベトナム戦争を批判しオーストラリアへ移住、その後日本へ。ながらく日本に住み、日本文学や文化の研究をしているそうです。

 

四方田はアメリカ、韓国、イタリア、イスラエルなどで教鞭をとったという人物。著書も軽く100冊を超えるという博覧強記の人。この二人が、ユダヤ人とは何かについて、多様な観点から、また具体的な人物を挙げながら話し合っています。ユダヤと聞くだけで難解そうだけれど、話し言葉だし、名前だけは知っている人物がたくさん出てくるので、二人の話に何とかついていけるわけです。

 

イスラエルの建国について。政治的なシオニズムと文化的なシオニズムは分けて考えるべきだ、というところなど、なるほどと思いました。ヨーロッパから追い出されたユダヤ人が、やっと自分たちの国を作ることができたのだと思っていましたが、そう単純な話ではなく、ユダヤ人だけの国家を作るということ自体、民族主義そのもので、反対するユダヤ人も結構いる。

 

先般このブログに書いたハンナ・アーレントも、故郷を作るのはいいし、ユダヤ研究の拠点を作るのならいい。しかし、パレスチナ人を追い出してまでユダヤ国家を作るのはまったく別の問題でユダヤ人の堕落だと。アーレントは、ナチスドイツがユダヤ建国を目指すシオニストに対し、「あなたたち、頑張ってくれよ。ヨーロッパからおとなしく出ていってくれたら、殺さないから」と密約していたと暴露し、イスラエルでは非ユダヤ人だと罵られたそうです。

 

ただ、イスラエルが今の日本の状況と似てきている、という四方田の主張は我田引水のキライ。日本人の韓国(在日も含め)嫌いも日本の民族主義からきているといいたいのだろうけれど、パレスチナを攻撃するイスラエルと一緒にされてはおかしい。でも日本も、一歩間違えれば、という面は確かにある。日本を愛するあまり、排外主義にはならないように、という警告と受け取ればよいのではないでしょうか。

 

いずれにしろ、日本人とはあまりにも異なる境遇を生きているユダヤ人たちから教えられることは多い。「ユダヤ人はアメリカにどう受け入れられたか」の章などは、とくに面白かったです。映画評論にも強い四方田の話を読んでいると、あらためて観たいハリウッドの映画がたくさんあります。人生の時間を有効に使わないと、ジ・エンドになってしまいそう・・・。

 

 

 

2014年9月11日 (木)

死ぬ理由、生きる理由

青山繁晴氏の新著「死ぬ理由、生きる理由 英霊の渇く島に問う」(ワニ・プラス刊)を読みました。先日私も古稀を迎えましたが、残された命、日本人の一人としてどう生きるか、深く考えさせられるものでした。

 

以前にも書いたかと思いますが、青山氏との出会いは6年前、琵琶湖畔で開催されたセミナー「北朝鮮大学」の講師として氏が来られたとき。セミナー打ち上げの懇親会で氏のまん前の席を与えられたことで、お人柄に一目惚れ。その場で大阪ブルーリボンの会は設立して5周年となるので、規模の大きな集会をしたいと思っている、ついては講演会の講師をお願いできないか?不躾なお願いをしました。「僕で良かったら」と快諾でした。

 

当時はささやかなボランティア団体で、拉致問題の集会をしてもなかなか人が集まらず苦戦中でしたが、いつか大阪のシンボル・重要文化財の中之島公会堂を満員にする集会をしたいというのが夢でした。氏の全面的なご協力(何と氏が毎週水曜日に出演されている関西テレビの報道番組「アンカー」で、ボードを掲げて視聴者に集会の案内をしてくださった)があって、一気に見果てぬ夢が実現することになりました。以後隔年開催の講演会が定着し、毎回満員。今年119日(日)に、第4回目を開催します。(大阪ブルーリボンの会ホームページご参照)

 

余談が長くなってしまいました。新著は、今年525日から30日にかけて開催された「硫黄島クルーズ」の船内における青山氏のすべての講演がそのまままとめられた貴重な本です。まず31頁にもわたるカラーグラビアが素晴らしい。そして船内での氏の行動の様子が克明に描かれているので、読者は一緒に「にっぽん丸」に乗船して、東京から硫黄島を往復しているような錯覚さえ覚えます。

 

青山氏が硫黄島に興味をもったきっかけ、私たち日本人が忘れていることは何か、勝者と敗者と立場の違いはあるにしろ、アメリカが硫黄島における日本軍の闘いに敬意を抱いているのはなぜか、そして何よりも、栗林中将が当時の軍部に逆らってまで、部下の安易な玉砕を認めず、一日でも長く米軍の本土攻撃を遅らせることに腐心したこと、21千人のうち大半は軍属で占められていたというプロとはいえない日本軍がそのためにとった過酷な任務・・・。

 

たとえ日本は間違った戦争をしていたからといって、命を懸けて国民、国家を守ろうとした日本人のことを見つめようとしないのは間違っているのではないか。まして立派な日本の領土である硫黄島が、全島民間人立ち入り禁止なのはなぜか、1万以上と言われるご遺骨がそのまま残され、今も自衛隊の滑走路の下に置かれているという現実・・・。

 

私は「アンカー」や講演会で何度かこのテーマでの話は氏から聴いてはいましたが、これほどまでに詳細にまとめられ、説かれたことは初めてでした。多くの心ある国民がこの書を読まれることを切に望みたいし、「死ぬ理由」が実は「生きる理由」へとつながっていることを理解し、素直に感謝し、私たちはどう生きていくべきかを真剣に考えたいと思います。

 

 

 

2013年11月 4日 (月)

原発廃止への確信

プロ野球日本シリーズ、楽天の初優勝には感動しました。巨人はもとより楽天のファンでもないけれど、最終の2戦はしっかりTV観戦しました。誰がどうというより、東北の人たちの熱い思いが天に通じたということだけで充分でした。思い、気魄、執念といったことが勝敗を分けるということをあらためて実感しました。

 

さて、小泉元首相の脱原発論がホンモノになってきました。安倍首相は、脱原発は無責任になると国会答弁しましたが、小泉氏は止めない方が無責任だと反論し、そこに山本太郎参議院議員の天皇陛下への直訴状問題まで出てきて、原発をめぐる話題が一挙にクローズアップされてきた。これは大変結構な情勢だと思います。(直情径行の私には山本太郎の思いはよく理解できます。メディアは政治家たちと一緒になって、彼の非常識だけをあげつらい叩き出さないでほしい。)

 

庶民のひとりとしては原発を止めたいが、正直止めたらどんな問題が起こるのか心配もあり、問題点を整理したいと思っていたところでしたが、うまいぐあいに友人の示唆もあって、西尾幹二氏と竹田恒泰氏が対談する「女系天皇問題と脱原発」(飛鳥新社)という本に出会いました。このお二人は保守の立場なのになぜ脱原発なのか。保守系メディアの読売、産経は原発推進の立場だし、一般に保守論者は、おおっぴらには言わないが、脱原発は核を持つというオプションを放棄するもので、万一の際の国防の備えを放棄することにつながると考えています。

 

産業界は電力の安定供給なしにはやっていけない、安倍首相も、原発が動かないと海外から石油や天然ガスを買うのに毎年4兆円もカネがかかる、消費税増税までして財政再建を図ろうとしている現在、原発再稼働はやむをえないのだとしています。

 

しかし、ふたりはこれらの理由を明確に否定しています。

 

まず現有の火力発電所を、GTCC(ガスタービン・コンバインド・サイクル)の発電設備に置き換えていけば、これまでの半分の燃料で火力発電できる。太陽光、風力や地熱などの自然エネルギーに頼らなければ原発廃止できないことはない、自然エネルギーは不安定で頼れないとか、電気代が高くなると言うのは、原発推進サイドの方便に過ぎず、反対に原発を維持するコストや膨大な廃炉費用には触れようとしないことが問題だとしています。(加えて、日本海のメタンハイドレードを実用化すれば、原油やガスを輸入することも必要なくなり、日本経済はさらに強くなることはあっても、弱体化することなどないのですね。)

 

日本はプルトニウムを60トン以上持ってはいけないとIAEAで決められている(これはアメリカからの要求)から、プルトニウムをもう一回燃やす(プルサーマル)という無理なことをしているが、日本は、敗戦国には核武装させないという国際社会からの管理下にあり、日本が核兵器を作ろうとしてもできない仕組みになっているし、もし世界を敵に回して自力で核を持つとする場合でも、茨城県大洗にある小型の高速増殖炉を使ったらできるというのです。

 

以上で私の疑問は氷解しました。原発は直ちにやめるべきだとこれからも自信をもって主張していきたいと思います。

 

ところで・・・竹田氏、西尾氏というふたりの考え方がよく理解できました。

なかでも竹田氏は、3.11のずっと前、高校から大学時代に路上生活者の支援活動を行っており、彼らから原発現場の悲惨さを具体的に聴いていたとのこと。(旧皇族のこの人が!と信じられない思い)原発の13ヵ月に1度の定期点検では、日当につられて現場にいく労働者が、原子炉の中に入って雑巾で放射能をふき取る作業をさせられていた!原発は名もなき人たちの被爆という犠牲のうえで成り立っていると知ったことから、原発に問題意識をもったと書いています。低被ばく線量のリスクについて、国際的な基準で計算すると、3.11以前でも300人から600人が原発の保守作業で亡くなっているという計算になるそうです。

(今日現在も福島の現場ではもっと過酷な事態が進行している・・・。)

 

彼はまた、チェルノブイリはもちろん、湾岸戦争当時に劣化ウラン弾を撃ち込まれたイラクにも調査に行ったというのですからホンモノです。数年後バクダットでは地下水に溶け込んだウランの影響で子供のガンが数十倍に跳ね上がっている事実がある・・・。(汚染水が地下水にどんどん流れ込んでいる福島の数年後、十数年後を私たちはもっとしっかり想像するべきです。)

 

「思い、気魄、執念といったことが勝敗を分ける」と冒頭に書きましたが、当然原発廃止にも言えることです。

 

 

 

2013年8月 6日 (火)

国家はなぜ衰退するのか

話題の書「国家はなぜ衰退するか(上・下)」(ダロン・アセモグル&ジェイムス・A・ロビンソン共著・早川書房刊)を読んでいる。アメリカではベストセラーとなった由だが、ホントかいな?と思うほど、上・下2冊はかなりのボリュームである。図書館で順番が廻ってきて漸く借りられたが、傍線や書き込みができず、やはり購入しようかと思い始めている。上・下5,000円は年金生活者には厳しい負担であるが、その価値はあるように思う。

 

この地球上で、古今東西、どんな国(地域)で、どんな政治経済制度がとられ、どんな帰結をみたかを具体的なエピソードも交え、分析し、国家の発展と衰退、繁栄と貧困の分岐点は、包括的な政治経済制度であるか、収奪的な政治経済制度であるか、であると説く。結論はひとつで、その意味では単純なのだが、綿密に調べ上げたひとつひとつの事実が実におもしろい。

 

38度線で分割されるまでは同じ日本の植民地であった朝鮮なのに、北朝鮮では収奪的な金王朝の独裁となり、法的に私有財産は認められず、市場経済は禁止され、経済は崩壊、多くの飢餓を生んだ。一方、韓国も当初は李承晩の独裁であったが、北とは反対に私有財産を認め、市場経済を推進した。民主的、開放的な政策の有無によって、二国の格差はいまや膨大なものとなった。人々を動機づけるインセンティブや教育もまったく異なる。北に自由はなく、南には民主主義がある。合衆国とメキシコの繁栄の格差も歴史的に見れば同様の理由で説明される。

 

ソ連の共産主義体制は、革命後およそ30年は年間6%成長を成し遂げ、うまくいっているように見えた。1956年、フルシチョフは欧米の外交官を前に、「わが国は諸君[西欧諸国]を葬り去るだろう」と演説し、ポール・サミュエルソンでさえ、経済学の教科書に、「ソ連の国民所得は1984年までにアメリカを上回る」と書いた。だがその経済成長は続かず、1970年代にはすっかり止まっていた。なぜか。経済的インセンティブの欠如と、エリートによる抵抗である。国家が主導する軍事・航空技術以外、さしたるイノベーションは起こらなかった。

 

スターリンは自分に忠実なエリートに褒美を与え、そうでないものには罰を与えた。1937年の国勢調査の結果が、自分の予測した人口を下回る数字となった(大飢饉と粛清の当然の結果であった)ことを聞いたスターリンは、国勢調査を担当した人たちを逮捕し、シベリアに送って銃殺したという。アフリカでも中南米でもいたるところで独裁政権とはどういうものか、多くの事実が語られる。まさに筆舌に尽くしがたい内容である。人間の命など、虫けら同然と考える独裁者が、歴史上も現代でもたくさんいるという事実だ。この本を読んで、今の日本を振り返ってみるのもひとつ大事なことではないか。

 

貧富の差は拡がりつつあるというが、幸いなことに飢えて死ぬ人はほとんどいない。戦争はイヤだと叫んでいれば「平和」が続くと思って暮らせる、まことに幸福な人々の住む国がこの日本である。その稀有な国民性ゆえにほかの国の人たちにも同じ価値観をもってもらえるはずと考える。このこと自体また稀有なのだということを知らねばならない。そのためにこの本は有益である。日本は立派な民主主義、法治主義、人権尊重の国であり、市場経済、自由主義経済の繁栄の中にいる。この本の主旨から言えば今後も繁栄は約束されているようだが、稀有な国ゆえの弱点があることをこの本は見逃している。それはこの国は自分たちで守るという国民の確かな意志がよく見えないことだ。