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2017年1月31日 (火)

(252)映画「沈黙」

マーティン・スコセッシ監督が、28年温めてきたという遠藤周作原作の「沈黙-サイレンス-」を観に行ってきました。クリスチャンではないので深くはわかりませんが、映画としては実に素晴らしかった。残酷な拷問のシーンがたくさんありますが、見終わったあとには、不思議と静謐な印象のみが残っています。上映時間161分も長いと感じませんでした。「雨月物語」へのオマージュとして撮られた場面もあるそうで映像が美しい。来月のアカデミー賞で撮影賞にノミネートされたのも納得です。(作品賞や監督賞もノミネートされてしかるべきと思いましたが・・・。)

 

はるか昔に原作を読んだとき、棄教の証に(キリストの顔への)踏み絵を強要される信者が、「神はなぜ沈黙されるのか」と問う場面に、キリスト教だけでなく他の宗教でも同じことで、どんなに信仰心篤くてもそう簡単に人間が救われることはない、つまり宗教の限界を描いたものと思っていました。今回、映画のラスト近くで聞えてくる「私を踏みなさい」という神のことばに、やっと遠藤の言いたかったことが理解できたように思いました。(もちろん原作でもそう書いてあったと思いますが、映画でそのシーンを観るとまた特別です。)

 

スコセッシ監督は、「最初は棄教を迫られる宣教師ロドリゴに感情移入していたが、次第に何度も棄教を繰り返し、ついにはロドリゴを密告するキチジロー(窪塚洋介)がわれわれそのものだと感じるようになった、『弱き者に生きる場所はあるのか』と問うている(産経新聞評より)」。また監督は原作について、「(信仰を)信じることと疑うことは同時に進行していく。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へ、それが『沈黙』のなかには、注意深く、そして美しく描かれていく」とも言っています。

 

命と引き換えの過酷な環境におかれたとき、信念を貫けるのか、宣教師の場合、他のひとの命とも引き換えとなるのです。たとえ強い信念を持っていたとしても神ならぬ人間は、簡単に揺らいでしまうこともある。業の深さと常に直面しなければならない人間。この作品のテーマは容易に結論の出ないことですが、しかし、少しでも誠実に、良心を持って生きようとすれば、誰ひとり逃げられないことだと思うのです。相変わらずテロや戦争が絶えない世界。トランプというある意味“独裁者”を選んでしまったアメリカ。信仰とは何か。信仰は必要か。考えさせられます。

 

窪塚以外にも、イッセー尾方、浅野忠信、塚本晋也など日本人俳優の演技はどれも素晴らしかった。彼らはスコセッシ監督を敬愛し、オーディションを受けてキャスティングされた。すでに国際的に評価されている映画監督である塚本がオーディションを受けたとき、スコセッシ監督は、あの「六月の蛇」の監督ですか!と仰天し、塚本は、エキストラでも結構です、と答えたという。この映画の凄さがわかります。

 

帰ってから、釈徹宗の「不干斎(ふかんさい)ハビアン ― 神も仏も棄てた宗教者」(新潮選書)を読み直しました。「沈黙」に描かれた時代のこと、禅僧からキリスト教に改宗し、日本人キリシタンの理論家となったが、突然キリスト教も棄て、キリスト教批判の書を著したハビアンという日本人についてわかりやすく書かれたこの本については稿をあらためたいと思います。

 

 

 

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