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2016年9月 3日 (土)

(236)72歳となる。

72回目の誕生日。母が亡くなった歳に、ついに並んだということに感慨を覚える。母は同じ申年なのである。つい最近、自分が48歳の申年のときに、父が亡くなった(享年89歳)ことに気がついた。今年は、母をさんざ痛めつけた(当然母の立場からの見方であるが)相手の兄嫁が突然亡くなった。申年には、ほかにも人生の転機となったことがあり、干支というものが持つ不思議さを思う。(今年もし、元気で過ごせたら、あと12年は大丈夫なのかな?)

 

馬齢を重ねてくると、人生への執着は加速度的に減ってくる(もちろん人それぞれだろうが)。行く末と来し方を、生きる環境で比較すると、行く末は断然期待できない、と思う。若い人には申し訳ないが、人間あるいは人類にとって、ますます息苦しいものになっていく。このことは毎度書いてきたことなので控えておくが、つい「いつ迎えが来てもOKだから」と口に出しては、家人に窘められている。

 

誰もが明日をも知れぬ、予想がつかない人生を生きているのだから、結局「命が続く間の長さ」つまり「寿命」にゆだねるしかない。その寿命をどう生き切るか、である。

 

Hくんが、この6月に書き送ってきたこと・・・。

 

巷に溢れる情報は99.9%は生きている人のためのもので、死にゆく人のためのものは、ほぼ皆無と言って良いのではないでしょうか。人生いかに生きるべきか、人生を成功させるためには、人生の楽しみ方等はあっても、死に方について、誰も何も教育してくれませんでしたね。と言うより、誰も何も知らない。

 

死を目前にした彼のこの言葉を読んで、そのときは当惑した。彼がどんな思いでこう書いてきたか、想像すると安易な返事は憚られた。死に方は自分で考えるしかない、自分の寿命を生き切るその直後に死があるのだから。生き物は何も知らないで生まれ、死ぬのだから、と返すべきだったかもしれないが、死を待つ彼にそうは言えなかった。

 

世に悲運の最期は数あれど、13歳にして拉致被害者となっためぐみさんの帰国が叶わず、かの地で亡くなったとしたら、こんなに悔しく哀しいものはない。日本政府は、その事実を知りながら、何の知恵も力もなく放置し続けている。このことはどうしても許せない。この理不尽を世に訴えつづけるために、これまでもやってきたし、誕生日の今日は、朝から仲間と「大阪府民の集い」の準備をした。72年の人生をかけて、政府に国会に問題提起を続けていく・・・これが「生き切る」ことになるのかもしれない。

 

 

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